上新井くろかわクリニック 黒河圭介

上新井くろかわクリニック院長 黒河圭介のブログ

叔父死す。


枯葉散る夕暮れは
来る日の寒さをものがたり
雨に壊れたベンチには
愛をささやく歌もない
恋人よ そばにいて
こごえる私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい~~

先日、お見舞いに行った呉の叔父(写真一番右)が逝った。。  この叔父は、ワシの母の弟で、昭和9年生まれだから、今年で77歳だった。

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わしの母の両親は、昭和20年8月6日広島の中心地で原爆にあい、母の父親は、まだ40歳前に亡くなった。 母の母も、大やけどを負った。 当時13歳だったワシの母、それに今回亡くなったおじさんが11歳、それともうひとり9歳の3人の兄弟と大やけどで瀕死の母の母が残されたってわけだ。

母の母(わしのばあさん)は、大やけどを負って絶対死ぬと思われていたのに、たいしてやけどのなかった母の父のほうが、原爆症(つまり、放射能汚染)で原爆投下の数日後に死んだらしい。

やけども負わなかった旦那が死んでしまったばあさんは、死んでたまるかと盛り返し、生き返った。 そんで、13歳の母、それに11歳と9歳の息子を、3人とも 女手一つで大学まで卒業させたのであった。 明治女のど根性には、まったく敬服してしまう。

叔父は、わずか11歳にして、父親の葬儀の喪主を取り仕切り、その後も長男として一家の柱となって働いた。 呉の高校の数学の教師一筋の人生であった。

わしが生まれたとき(昭和34年)には、叔父にとって初めての甥ということで、当然そのころにはまだ自分の子供もいなかったので、わしはとてもとても可愛がってもらった。

典型的な理科系人間で、カメラやラジオ、機械ものが大好きで、遊びに行くといつもいろんなものを買ってくれ、一緒にプラモデルを作ったり、ゲルマニウムラジオを二人で組み立てたりした。

時には、そのころ子供の間で、流涎の的だったミニチュアカメラを買ってくれて、それで、あちこちを映しまわり、夏の暑い日に押入れを締め切って、しかも目張りをして、光線を遮り、汗だくになって現像をしたこともある。 まあ、いまでいうところのオタクだったのである。

わしが高校生になってからは、夏休みになると数学の教科書をもって、呉にでかけ、勉強を教えてもらった。 わしの父親は、勉強を教えてくれるような人ではなかったので、ワシ幼い頭のかなりの部分をこの叔父に教えてもらったことが占めている。

わしが理科系に進み、今あるのもこの叔父がいたからかもしれない・・・